抱瓶

抱瓶三十周年記念公演 ご挨拶

この度は、抱瓶三十周年の記念公演にお集り頂き誠にありがとうございます。
皆様に支えられて、お陰様で抱瓶も三十周年を迎えることが出来ました。心より感謝の気持ちと重ねて御礼を申し上げます。
 思えば十六才で石垣島を離れ、大阪・神戸・東京と流れ流れて、五十四年の歳月が経ちました。考えると半世紀余の長い年月なのにあっと云う間であった様な気がしております。私ももう七十才、「光陰矢の如し」と申しますが、今まさにその心境でございます。
たまに、こんな筈じゃなかったのにと、夢多き青春の頃を思い出します。
潮の香りや、風の感触、砂浜を踏んだ足跡、緑の木々の風景など、故郷を思い、何度涙したでしょう。
 洋裁で身を立てたいと、大阪の文化服装学園で学んだ後、技術とデザインを身につける為伺った先は港町神戸でした。洋裁店探しに本町や三ノ宮と毎日歩き回りましたが、保証人がいない故、採用して貰えませんでした。
 或る日、「募集」と書いた文字を見て、駆け寄って見ると、(ただし朝鮮人・琉球人お断り)と書いてあるのです。足が竦んで仕舞、路地裏で号泣したあの日の事が忘れられません。
 終戦直後の食糧難の時に、私の父は何十人の兵隊さんの面倒を手厚く世話してあげていました。其の後、帰国した兵隊さんやご家族から父の元へお礼の手紙がたくさん届きました。中には、少女からのもあって、その少女に手紙を書く様父に促されて、どの様に書いたか覚えていませんが、つたない文字で手紙を書きました。
 米国統治下にあった沖縄は日本国から分断されていて、差出人の住所は父の下書きを真似て、確か(琉球南西諸島、八重山郡石垣市字登野城)と書いた記憶があります。目が腫れるまで大泣きしたのは、父が哀れに思えたのと、私が琉球と書いた情景が重なったからです。
 職探しにさまよっている内に貯金も尽きそうでいたので、中国人が経営する店に住込みで働きました。その頃、喫茶も知らなかった私は、夜のネオンが怖くなり、売り飛ばされるのではないか?と本気で思い「辞めさせて下さい」と言いましたら、田舎娘が怖がっていると思ったのでしょうね、温和そうなマスターやママさんが「飲み物や料理を運ぶだけだから」と優しくさとされました。あの中国人達も周りから差別を受けていたのではないかと今成に思います。
 二ヶ月ほど働き、東京へ出て来たのは十六才の頃でした。生活のため飲食店で働く事に成り、新宿・池袋・上野と渡り歩き、後に雇われマダムとして勤めておりました。
或る日、店の売上を届けに吉祥寺まで行った帰り、ふっと降りて見たかったのが、高円寺でした。今では風景がすっかり変わって仕舞いましたが、北口に第一市場があって、狭い通路には出店が軒を連ね、ドジョウやアサリなどが売られていました。そんな庶民的な所が那覇の公設市場に似ていて、私が安らげる所は高円寺と決めて、昭和三十六年三月に「きよ香」を開店いたしました。
好んで泡盛を飲む常連の文化人達で何時も賑わっておりました。子育てをしながら店を維持してこれたのは、常連客に助けられたお陰でございます。
 さて、四十才を迎える前に全国本格焼酎の店を持ちたいと思い実現したのが、今の「抱瓶」」です。「河は流れる」で大ヒットした仲曽根美樹のお父様が、連帯保証人に成って下さいました。焼酎の店を開くと云う事で、周りではきよ香のママさんクレイジーに成ったんじゃないかと噂していたそうです。
 今でこそ、料亭や高級レストラン、飲食店なら何処でも置いてありますが、あの頃、焼酎は労務者か、貧乏な人が飲む安酒と云う風潮がありました。
 店の名前の抱瓶は「青い海」と云う月刊誌を見ていましたら抱瓶と云う字が目に留まりまして、言葉の響きからも悠長に暮らしてきた昔が偲ばれ、何度もかみしめて「抱瓶」と名付けました。
 開店をした頃「沖縄ブームですね」とマスコミにインタビューを受けた事があります。私は「ブームと云う言葉は好きじゃありません。何時か消えてなくなるファッションみたいじゃないですか。沖縄はますます定着しますよ」と答えました。予想通り今では各駅ごとに沖縄の店舗が激増しています。
「琉球人・沖縄人だと隠していた時代」は過ぎ去りました。
 開店以来、沢山の有名人達が訪れてくださいました。抱瓶でライブを開き巣立った芸能人も数多くいます。こうして皆様に愛され親しまれて、何時の間にか三十年が経ち、本日の記念公演を迎える事と成りました。
 本日は支えてくださった皆様に、感謝の意を込めたイベントでございます。
どうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいませ。
 今後とも抱瓶をご愛顧くださいますよう厚くお願い申し上げます。
有限会社 抱瓶
群星
代表取締役社長 高橋淳子